やってみたいと思ったことをやり通す力こそが才能。 何も知らなかった自分が、大阪芸大に入り劇団を立ち上げるまでのはなし。 | ワクスタ
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やってみたいと思ったことをやり通す力こそが才能。 芝居に接したことがなかった自分が、大阪芸大に入り劇団を立ち上げるまでのはなし。

こぐれ修さん。大阪芸術大学芸術学部舞台芸術学科演技演出コース卒業。1980年在学中に『劇団☆新感線』を創設。つかこうへい作「熱海殺人事件」木村伝兵衛 役で初舞台。以後、新感線の数々の舞台に出演する。
また、劇団EXILEの旗上げ公演に参加。他、「新幕末純情伝」「寝盗られ宗介」「犬を使う女」など話題のつか作品に連続出演を果たし、「パリアッチ」「エビ大王」明治座公演「あずみ」など、様々なプロデュース公演やドラマ、映画で活躍する。一方、最近では演出家として「こぐれ塾」を立ち上げ、2016年1月には、つかこうへい作「広島に原爆を落とす日」を持って東京芸術劇場へ進出、多方面からの評価を得ている。

役者になりたかった。その方法を知るために大学へ進んだが、自分の求めた場所とは、違った。

なぜ芸大を選んだのですか?きっかけを教えてください。

私の出身は山口県下関市。映画、ドラマを見てぼんやりと役者さんたちの仕事に憧れをもつような少年でした。でも、山口には商業演劇の公演は来ないし、高校にも演劇部はなかった。

 

役者になるためにどんなことをすればいいかはわからなかったんですよね。

 

じゃあ、演技の学べる大学はあるのか?と探したときに、祖母が住んでいた大阪に演劇のカリキュラムを持つ大阪芸術大学を見つけました。

 

いざ入ってみると高校生の頃から演劇に触れていた人がほとんど。高校演劇の大会に出たことのある人も多かったですね。そういう同期たちが、演技のことを熱く語ったり合ったりしているのを見ても、自分はそこに混ざって語り合いたいとすぐには思えませんでした。

 

そのころの主流は、新劇。実は、型にはまった新劇のようなものは、僕にはあわなかったんですよね。で、大学3年までは芝居に興味が持てなかった。

授業はどうしていたのですか?芸大は進級が厳しいと聞いたことがあります。

授業はちゃんと出席していました。大阪芸大の僕のコースも、授業に出ないと単位もらえなかったんです。

 

授業は演技実習が中心でしたが、演技論・演出論など講義形式のものもあり、一般教養も。1・2年の間は体育もあり、どれもしっかり出ていましたよ。

 

 

演劇関係の授業は、劇団に所属するプロの俳優の方々が講師。演劇論を熱く語ることもなく、ただなんとなく授業に出ている私は、半端者と思われていたように思います。だから正直、思い出に残る授業はないし、尊敬する先生もいません。

 

楽しくないと思って出てた授業だけど、このころに学んだことは、実はあとになって活きてきたんじゃないかと思います。この話は、あとでしますね。

 

そうそう、僕の1つ下の代の講師には、岸田戯曲賞を受賞された秋浜悟史さんがいらっしゃった。僕は直接指導を受けられず、すごく残念。秋浜さんは一般的な演劇論を語るのではなく、今の時代を感じ、お客さんの反応を感じ、そこで感じた想いや考えを語ってくれる方で、僕らの若者の感性とも向き合ってくれた。とても尊敬しています。自分もそんな大人になりたいと今でも思っています。

 

いまの大阪芸大では、演劇の最前線に立つ方々に教えてもらって生の演劇に触れられる授業が増えているようです。今活躍している人たちに直接相談でき、自分が劇団に飛び込んでいってどんな戦い方をするのかを確認できる場。学校を十二分に活用して自分の夢と向き合う、ということが僕の時代よりもっとしやすくなってきたんじゃないでしょうか。

声をかけられなかったら新感線は解散していた?!37年続く人気劇団の、はじめの一歩。

あまり興味がなかったころから一転、芝居をやってみよう、と思ったきっかけはなんだったんですか?

演劇をイマイチ楽しめないまま大学3年間を過ごしていたころ、同じ下宿に後輩の猪上がいたのですが、あ、あの「いのうえ(ひでのり)(劇団☆新感線・演出家)」ね。

 

猪上が「こぐれさん、これ面白いですよ」と言って持ってきた、つかこうへいさんのビデオテープ。

 

それを観て「こういうことを舞台でやってもいいんだ」と、ガツンと頭を殴られたような思いがしたんです。

 

自分も何かをやってみたいという気持ちがふつふつと湧き出てきて……。

 

大学生活もあと少しという大学4年生の11月。卒業する前に、どうせなら1回くらい、自分が本当に面白いと思う芝居をつくってみようと思い立ちました。

 

大学の同期たちも誘って、つかさんの舞台『熱海殺人事件』をつくってみようかと。そして、劇団名をどうするという話になって、メンバーは福岡出身がふたり、山口出身が僕もいれてふたり。みんな山陽新幹線に乗って大阪にやってきたから、「新幹線」にしようという話になった。スピード感のある芝居を目指していたから「劇団新感線」という名前を決めました。

 

※劇団新感線旗揚げメンバー(一番後ろが、こぐれ修さん。手前が、いのうえひでのりさん)

新感線の旗揚げの瞬間ですね!当時から、ずっと芝居を続けていこうと思っていたのでしょうか。

いや、公演が終わったらそのまま即解散の予定でした。でも、公演は思ったより盛況で、たまたま見に来てくれていたプロデューサーが阪急の劇場でも再演してくれないかとオファーをくれたんです。

 

まさか自分たちの芝居で、商業公演ができるなんて……と驚きましたね。チラシやチケットの印刷費も劇場費も阪急が持ってくれる。東京からわざわざ僕ら学生の芝居を観に来てくれる人もいて。たくさんのお客さんの前で演じられるのは本当に楽しかったですよ。

 

公演が終わって、さあこれで本当にやめるぞと意気込んでいたら、今度はマスコミの人たちが「辞めない方がいいんじゃない?」と引き留めてくれたんです。

 

そのころ声をかけてくれた人たちがいなかったら、もしかしたら僕は今の仕事をしてないかもしれません。出会いってなんだか不思議なものですよね。

一度就職した、という経験が、芝居に活きてくる。

大学4年での劇団の旗揚げ。就職活動はしなかったのですか?

就職活動、しましたよ。阪急での公演は、大学4年の2月。既に入社する会社が決まっていました。

 

公演は成功し、マスコミの皆さんに「もったいない」と言っていただきましたが、親の手前、卒業して一年間だけ就職してみたんです。お前の卒業に合わせて一年で仕事を辞めて帰ってくると猪上に約束。入社した岡山県の制作会社では、テレビ局に出入りして照明や雑用をやったりしてました。照明の技術はその後の劇団の公演で使えたし、番組会議に出た経験はいま企画を考えるときに活きていますね。

社会人経験はいま活きているとのことですが、大学での学びはどうですか。

楽しいと思えず出ていた大学の授業だけど、基本的な技術をしっかり学んでいたことは、やっぱり良かったんだなと思います。

 

技術って必要なんです。たしかに演技で重要なのは、ハート、想い、その人の経験からかもしだされる人間性とか、そういうもの。とはいえ、技術がないとできないことがある。しかも、技術は習得することができる。そういう思いから、自分がもっている技術を伝えられるならと「こぐれ発声教室」を始めました。はじめは3人くらいだったんですが、今では毎月新規の生徒さんがやってくる。正直、こんなにたくさんの生徒さんが集まってくれるとは思いませんでした。

 

才能を掴むには、まず、やりつづけることだ。

演劇を志す若者には、親の反対や才能の壁もあると思うのですが……。
そのような学生にメッセージをお願いします。

自分の夢を大人に話したとき、「なぜ食えない道をわざわざ選んで歩もうとするのか」「才能もないのに」と言われることがありますよね。

 

僕は「十年一つのことをやれたら才能」と考えています。まず目指してみて、「やりたいからやる」でいい。十年頑張ってみる。それで、まだやれていたら、もしかしたら才能があるのかもしれない。

 

私も仲間と十年頑張ってみようと言っていたら、十年経っていました。一番面白く生きられることが、それしかなければ、お金につながらなくても進めばいい。ぜひ、まずは十年、いま自分が夢中になっているものに、がむしゃらに挑戦してみてください。

 

こぐれさんが、これから実現したいことは何ですか?

たとえ頼まれた仕事でもオーダーを丸呑みするのではなく、自分なりにどうやったら面白くできるかと、いつも考えています。自分が本当に面白いと思ったものを、若い人たちに伝えていきたい、残していきたい。

 

僕らが若いころ観たすばらしい芝居で、すでに観ることができなくなってしまったものもあります。自分たちのあの驚きを、若い人に感じてほしい。そう思い、若者たちとともに芝居作りを続けていきたいです。

 

インタビュアー
ホサカ(20年前は演劇っ子。今は仕事が趣味のワーカーホリック)
アクネ(青山学院大学・現役大学生。内定先のメディアで編集長見習いをしている)

皐月 彩

ライター
皐月 彩

日本大学芸術学部映画学科 2017年卒。 エジプト出身。円谷プロダクション製作の『ウルトラマンジード』の仕上げ進行スタッフを経て、現在はフリーランスの脚本家として映画・アニメ・ドラマの制作にかかわる。

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